村重有利先生

 村重有利先生は明治28年1月7日、山口県玖珂郡周東町大字祖生に出生され、16才の時志を立てて上京し、明電社に奉職のかたわら苦学と共に武道に精進され、朝に夕に寝食を惜しんで一日7道場に通うという筆舌に尽くせぬ修業に励み、又先生は信仰心厚く寒中の断食行に加えて大峰山修験 本山では大阿闍梨(僧侶の位)の称号を拝受し、生来の熱血漢であられた先生は、物事の取組みには常人には測り難い程の徹底さで臨んでおられたのであります。

 武道の修業も幅広く、講道館で柔道修業中は、創始者嘉納治五郎先生の高弟であり、当時柔道(四段)を拝され、更に剣道(五股)、居合道、棒術、技術、空手、鎖鎌、槍術、なぎなた等は何れも教師免状を拝され全ゆる武道に精通した後、合気道創始者植芝盛平先生の門をたたき、ここでは更に厳しく激しい信仰の求道と合気道の修業に腐心し尽くすと共に、植芝先生の偉大さに深く傾倒し遂に終生を合気道に投げ打つ決心をされたのであります。

 その後、満州建国に従事し、昭和28年から6年間、ビルマ警察大学武道師範を経て帰国後、柳井の地で合気道を有志に教授され、現在の山口県の合気道の誕生となったものであります。
 更に昭和36年には、ベルギー政府の招来を受け、渡欧し活躍中、昭和39年、交通災害の禍に会い、惜しくも生涯の幕をこの地で降ろされたのであります。
 先生実に68才の年で、当時合気道では日本最高段位の九段を許されておりました。




村重先生から中村支部長へ贈られた色紙

「行く道は一歩々と踏みしめて
       行くは千里の道も楽々」





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